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このページは 2008年 01月 06日 12時22分35秒に更新されました。
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読者とは?

読者センターは、沖縄タイムス社と読者の皆さんを結ぶパイプ役です。読者の皆さんから、新聞社に電話したいが、どこに尋ねたらいいのかわからないという声をよく耳にします。このようなときに「読者センター」を利用すると便利です。
具体的には、一般の人たちをはじめ、地域の団体や学校の社内見学の受付から案内、新聞に掲載された写真を有料で提供するフォートサービス、新聞記事に対する問い合わせやクレームへの対応です。さらにNIE(NEWSPAPER IN EDUCATION=教育に新聞を)事業をサポートし、各学校での情報教育にも積極的に関わっています。
同センターは2002年1月に新設され、社屋2階の展示室には新聞の歴史がひと目でわかるように機材や資料、九州各県の地方紙を展示しており、生きた新聞学習ができます。また、タイムス出版物の展示・販売もしています。
沖縄タイムス社は、読者センターを開設しています。これは地域住民に密着した紙面づくりを進める中で、より多くの読者の声を紙面に反映しようという狙いからです。急速な技術革新に伴う高度情報化社会は、ある意味で情報の氾濫(はんらん)時代であり、その取捨選択が快適な住民生活を送るうえで、重要になってきています。読者が今、どういう情報を求めているのか。今後も住民の視点に立った「読者本位制」を主眼にした新聞づくりに努めます。紙面に関する意見、要望をお寄せください。
新聞記事および紙面には著作権があり、法律で保護されています。従って、私的利用など特定の場合を除き、無断でコピーしたり他の媒体に転載したりすると著作権法違反になります。記事や写真の複写、転載については資料室(098−860−3559)にお問い合わせください。
2003年6月以降の沖縄タイムス掲載の写真を複写して販売しております。ただし、著作権の関係により、弊社撮影分のみです。お申し込み時にお尋ねください。サイズはA4=2000円、A5=1000円です。ラミネートA4=200円、A5=150円別途いただきます。(コンピューター処理のため多少画質が落ちます)
沖縄タイムス社では、本社ならびにUPセンター(印刷工場)の見学のお申し込みを受け付けています。記事が新聞になっていくまでの工程や、沖縄タイムスの歴史、印刷の様子を見ることができます。
※お申し込み多数の場合には、調整させていただくことがあります。また、お申し込みは、見学希望日の1週間前までにお願いいたします。
※土、日、祝日、年末年始(12月25日〜1月10日)は受け付けておりませんので、あらかじめご了解ください。
※土、日、祝日、年末年始(12月25日〜1月10日)は受け付けておりませんので、あらかじめご了解ください。

[ 6] 沖縄タイムス 読者センター
[引用サイト]  http://www.okinawatimes.co.jp/com/dokusya.html

 

一、この言説集は、現代の文学研究や批評の現場において用いられている特定の概念(または概念ならざる概念)について、その引用を列挙したものである。
一、今回は、「読者」をめぐる言説を取り上げた。「作者および主体」をはじめ、他のさまざまの用語との、有機的な関連づけを可能にすべく、整備工夫する予定である。
一、集の構成は、標記の概念に関わる引用文と、そのコンテクスト解説からなる。それぞれ、後述する見出し語別に整理した。引用文は段下げせず、冒頭に・を付して原著の発表順にこれを並べた。同書からの引用は、(同右書)(同右章)等の省略表記を用いた。
一、原則として、海外の理論書の日本語訳からこれを集めた。それぞれの訳書については、引用の後に訳者名、書名、発行年、出版社名を明記し、書名には必要に応じて章題、論文題をも加えた。見出し語がグループである場合に限り、訳者名の前に著者名を加えた。原著の書誌事項は必要に応じて掲げた。
一、見出し語には、その語を用いることにおいて特徴的であったと思われる批評家名ないし批評家グループの通用名称を用いた。
一、見出し語の選定には現代文学理論研究会があたった。また標記語に該当する引用文中の語は、ゴチック体でこれを明示した。
一、訳語については、一般に定着していると思われるものを用い、できるだけ原語をパーレン付きで掲げるようにした。外国語のカタカナ表記についても、原音に近いものを用いたが、慣用に従ったものもある。人名についても通用表記とした。
一、用例の解説は、執筆担当者の恣意的な見解が入ることを極力避けるために、その用例の前後の文脈を明らかにすることに止め、理解補助の範囲を出ないようにした。
一、原語を引用する場合には、英語または英語化したもの以外、その言語を必要に応じ《仏》《独》《伊》等の略称で付した。
・なぜなら、プルーストと私自身を同列に並べたからといって、私は自分をこの大作家と比べようなどというつもりは全然ないからです。(略)私は自分を彼と一体化しようとしているのです。実践の混同であって、価値の混同ではありません。(略)小説においては、読者は、多かれ少なかれ(時々という意味ですが)登場人物の一人と一体化しているように思われます。こうした投影こそが文学の原動力であると私は思います。しかし、(略)読者が、自分自身、作品を書きたいと思っていると、この読者はもう単にある虚構の人物に一体化するのではなく、とりわけ、この本を書きたいと思い、それに成功したものとしての作者自身と一体化するのです。
・楽しみながら書くことは、私に――作家である私に――読者の快楽を保証してくれるだろうか。全然しない。このような読者は私が探さなければならない(《ハント》しなければならない)、どこにいるのかも知らずに。その時、悦楽の空間が創られる。私に必要なのは相手の《人格》ではなく、空間だ。欲望の弁証法の可能性、悦楽の予見不能の可能性だ。
・テクストは(たとえ伝記的には同時代の人間ではあっても)《自分が読む物と同じ時代を生きているわけではない読者》にこそ提供される。あるものは『H』を小説として読もうとする(そして失望する)。あるものは詩として読もうとする(そして失望する)。あるものは一九三〇年の前衛の立場にいる。そしてまたあるものは、いわば修練期まえの修道僧志願者のように、未来の立場に身を置き、『H』を明日の書物として読もうとする。しかも、その未来が前進的・発展的であるだけではなく、弁証法的に回帰やシンコペーションも含むことを承知の上で。(略)もっとも遠いものともっとも近いもの、もっとも若いものともっとも年老いたもの、もっとも庶民的なものともっとも貴族的なものにとって、しばしば火元は同じなのだ。(略)言いかえれば、『H』のなかに、執拗な繰り返しによってしか生き残れないものを越えて、自分たちの知らないもの、この先も知らないだろうものへの移行を見て取る読者たち(私自身、そういう読者のひとりだと思う)。《歴史》における読者の粉砕とはそういうものなのだ。
・−の一対一的関係が神話共同体では正当化できるわけは、そこでは共同体が両方の役割を引き受けており、このような共同体が言わば自らに差し向ける言述の発信者でもあれば受信者でもあるからである。(略)ヨーロッパにおいて、中世末期とルネサンス期初頭に諸教混合的社会の崩壊が全面的に生じた結果、この崩壊につれて、言述がという真の位置を占めると、−の関係は複雑化する。主体=受け手は、小説の対話的構造を通して、主体=受け手と対話を営むのである。(改行)語りの主体は語る行為そのものを通して、他者に語りかけるのであり、そして、この他者を照準にして、語りは構造化されるのである。であるから、語るという行為を、シニフィアン/シニフィエの諸関係を越えて、さらに語りの(S)と他者である(D)との間の対話として、研究することができよう。この受け手は読む行為の主体にほかならないのだから、彼は二重の方向――つまり、テクストとの関係ではシニフィアン、また、<語りの主体>との関係ではシニフェエになっている――をもつ実体を代表していることになる。したがって、受け手は二元構成(D1、D2)なのであり、この両項が相互間のコミュニケーションに加わることによって、一つのコード体系を成しているのである。(谷口勇訳『テクストとしての小説』、3・1・2「神話モデルの破壊」一九八五年、国文社)
・小説の多声的(多筆跡的?)構造にあっては、第一の対話モデル(S↑↓D)が言述のなかで全面的に作用する。このモデルがこの言述に絶えず異議申立てするものとして現われる。だから、作家の話し相手は、(他のテクストの読者としての)作家自身なのである。書く人は、読み直されては書き直される一つのテクストにしか過ぎない。それ故、対話的な構造は、(他のテクストに対しては両面意義的なものとして再構成される)テクストの光に照射されて、はじめて現われてくるのである。(改行)これとは反対に、叙事詩では、受け手(D)はテクストの外にいる、絶対的な一つの実体(神あるいは共同体)であり、この実体によって対話は相対化され尽くし、ついては排除されて、独話に還元されてしまう。このことを念頭におけば、十九世紀のいわゆる�疆租�的�狆�説のみならず、何らかのイデオロギー的主張を有する小説もみな、叙事詩のほうへ向かい、小説本来の構造から逸脱している理由は、容易に理解できる。(同右書、3・4「小説の意味作用の組織化」)
・中世の伝統では、すでに確立された言説を解説するレクトルlectorと、新たな言説を産出するアウクトルauctorが、対置されていました。この区分は、宗教における分業に見られた預言者と僧侶の区別の、知的分業における等価物です。預言者は、アウクトルです。つまり、自分の作品の申し子であり、自らの人格(カリスマ)と自らのアウクトルとしての実践以外に、他の正統性、他のアウクトリタスarctoritas〔権威〕を持たぬ、それゆえ、自らのアウクトリタスのアウクトル〔創造者〕たる者です。一方、僧侶は、レクトルであり、レクトルたちの団体、すなわち教会によって委任された正統性を持つ者ですが、その正統性の根拠は、分析をつきつめていけば、本源のアウクトルのアウクトリタス遡るわけで、レクトルたちは少なくともこの本源のアウクトルを参照するとの体裁をとるのです。(改行)(略)レクトルの持つ幻想の一つとは、自分自身の生産の社会的諸条件を忘れ、無意識のうちに、自分の読書の可能性を普遍化してしまうという幻想です。
(石崎晴己訳『構造と実践―ブルデュー自身によるブルデュー』第�局�第九章「読むこと、読み手、文人、文学」、一九九一年、藤原書店)
読書行為が可能となる諸条件と、「レクトル」がいかに生産されるかを問う必要性を説いた箇所。ここで登場する「レクトル」は「教養のある読者」とほぼ同義であり、P・ブルデューの読者概念を考える上で重要である。
・受容の理論(およびウォルフガング・イーゼル)にならってそれを「暗黙の読者」と呼ぶにせよ、ミカエル・リファテールとともに「」と名付けるにせよ、あるいはスタンレー・フィッシュとともに「事情に通じた読者」と呼ぶにせよ、分析が実際に扱っている読者―たとえばウォルフガング・イーゼルがととして読書経験を記述している場合のように―は、じつは(この点で彼らはにきわめて一般的に見られる傾向に従っているのだが)教養ある読者としての、社会学的には分析されていない自分自身の経験を対象として取り上げている理論家自身にほかならない。経験的観察をそれほど推し進めなくても、純粋な作品が要求する読者が、それらの作品が生産される社会的条件を()再生産する例外的な社会的条件の所産であるということは、理解することができるだろう(この意味で、作者と正統的な読者はたがいに交換可能である)。
・読者の共同作業を要請するとは、テクスト外の諸要素でもって構造分析を汚染することを意味しない。解釈の能動的原理としての読者は、テクストそのものの生成場面に属する。
・そのテクスト戦略を組織するために、作者は、彼が用いる表現に内答を付与する、一連の能力(「コードの認識」というよりもっと広い表現)にかかわらねばならない。彼は、自分がかかわる能力の総体が、その読者がかかわるのと同じであると想定しなければならないのだ。したがって彼は、作者たる自分が考えていたとおりに、テクストの顕在化に共同作業しうるモデル読者を予想するだろう。このモデル読者は、作者が生成〔テクストの〕においてふるまったのと同じように、解釈においてふるまいうるものと予想ざれるだろう。
・自らのモデル読者を予想することは、それが存在すると「希望する」ことを意味するだけでなく、テクストに自らのモデル読者を構成するよう仕向けることをも意味するのだ。
・今後、モデル作者とモデル読者という語がつかわれるときはいつでも、いずれの場合も、テクスト戦略のタイプのことが言われている。モデル読者とは、ひとつのテクストがその潜在的内容を十全に顕在化されるために、充たされるべき幸福の条件、それもテクスト的に確立された条件の集合のことなのだ。
・もしモデル作者およびモデル読者が二つのテクスト戦略だとすれば、そのとき二重の状況に直面することになる。一方で、これまで述べてきたとおり、テクスト言表行為の主体としての経験的作者は、モデル読者の仮説を打ち出し、それを自らの戦略に変形することで、自ら言表主体としての作者を、同様に「戦略的」にテクスト作業様態として描き出す。しかし他方で、共同作業行為の具体的主体としての経験的読者は、モデル作者の仮説を、まさにテクスト戦略の諸与件から引き出すことで、それを描き出すはずだ。経験的読者が自らのモデル作者について打ち出す仮説は、経験的作者が自らのモデル読者について打ち出す仮説よりも保証されているように思われる。事実、モデル読者は、いまだ現実に存在しない何かを要請し、それを一連のテクスト作業として実現しなければならない。これに対してモデル作者は、あらかじめ言表行為として確認され、言表としてテクストに現前する何ものかから、典型的なイメージを引き出すのである。
・当然のことながら経験的読者は、モデル読者として自己を実現させるためには、さまざまな「文献学的」義務をもつ。つまり彼は発信者のコードを、できるかぎり近似的によみがえらせる義務をもつのだ。
・ひとつの物語のモデル読者は経験的読者ではありません。経験的読者とは、テクストを読んでいるときのわたしたちであり、わたしやあなたがたのことであり、つまりだれもが経験的読者なのです。経験的読者にはさまざまな方法で読むことが許されています。どう読むべきかなどという法律はいっさい課せられていません。
・テクストとは、そのモデル読者を生み出すために考案された装置です。(略)この読者とは「唯一正しい」推測をする者のことではありません。テクストは無限の推測を試みる権利をもつモデル読者を想定できます。経験的読者は、テクストがどのようなモデル読者を仮定しているのかを推測する役を演じているに過ぎません。テクストの意図とは、基本的にはテクストについての推測を行うことができるモデル読者を生み出すことですから、モデル読者の主導権は、経験的作者とは別にモデル作者を想像することにあり、そのモデル作者が結局はテクストの意図と一致します。したがって、テクストは解釈の正しさを証明するための一要因だけではなく、解釈が自らの生み出す結果を根拠に、自らの妥当性を確認していくという循環的な過程で、構築されていくものなのです。
『エーコの読みと深読み』の成立について、「あとがき」によると「一九九〇年、ウンベルト・エーコを講師に迎えケンブリッジ大学で行われたタナー・レクチャーの原稿をもとに、まとめ役のステファン・コリーニが解説を加えて編集した」ものとされている。引用したテクストは同レクチャーにおいて為されたエーコの講演のひとつである。
・作品は読者による具体化をまって、初めてその生命をもつがゆえに、テクスト以上のものであり、具体化は読者の主観に全く束縛されないことはないが、その主観性はテクストが与える条件を枠として働いている。つまり、テクストと読者とが収斂する場所に、文学作品が位置している。こうした場は、当然のことながら潜在的にしかありえない。(略)文学作品とは、読者の意識においてテクストが構成された状態を指す。
・虚構の読者は遠近法の一つにすぎず、他の遠近法とともに相互作用の関係におかれている。それに対して、読者の役割は、こうした遠近法の相関関係があって初めて生じてくる。すなわち、読書というテクストによって導かれる行為の中で、読者は遠近法相互を仲介する役割を負わせられており、この意味からすると、虚構の読者は、読者の役割の一つの局面をとらえているにすぎない。
E・ヴォルフの「意図された読者」を、テクストに内在する「虚構の読者」であると し、読者の役割との違いから説明した箇所。遠近法については、別の箇所で、「共通 な美的対象(テクストの意味)」に対する「特定な立場からの方向性を持った見方」 であると説明している。
・文学作品によってひき起こされる作用や受容を解明しようというのであれば、読者の性格とか歴史的な立場に対する一切の予断をもたずに、読者概念を導入しなければならない。そこで、適切な名称として「内包された読者
der implizite Leser; the implied reader」の概念を用いることにしよう。これは、文学作品の作用にとって必要なあらゆる前提条件を具象化してみたものである。こうした前提条件は、経験的な外界の現実に拘束されてはおらず、テクストそのものが内包している。
旧来の読者概念、個別的には、M・リファテールの「超読者」、St・フィッシュの 「精通した読者」、E・ヴォルフの「意図された読者」、の問題点を指摘した後、「内 包された読者」について述べた箇所。
・内包された読者の概念は、テクストには読者の反応を導く構造のネットワークがあり、それによって読者のテクスト理解が促進されるという力学的な過程を総称している。どのような文学テクストであっても、読者に対して、つねに特定の役割を提供している。この役割の概念構成が内包された読者である。この概念は相互に密接な関連をもつ二つの基本的な局面、すなわち、テクスト構造としての読者の役割と、行為構造としての読者の役割とによって規定される。
過去志向)との頂点となる。一つびとつの文の相関体は、それぞれ特定な地平の展開を予示するが、それは直ちに次の相関体の背景に転じ、必然的に修正を加えられることになる。個々の文の相関体が次に来るものを志向しているといっても、それには限度があり、そこで呼び起こされる期待は、どれほど具体的であっても、どこかが欠落している。この欠落部分こそ、その補足が予測されるために、期待を生み出す働きをする。従って、新たに出現する相関体は、どれも(肯定的であれ否定的であれ)期待の充足であって、しかも同時に新たな期待を生み出す。
予覚(未来志向)と保有(過去志向)についての箇所。「読書はどの瞬間をとっても、予覚と保有の弁証法ということができる」とも述べている。(→P・ブルデュー)
・読者はテクストの多様な局面を〈まとめ上げる〉作業に参加している。つまり、読者はテクストからさまざまなイメージを展開し、そのようにしてえた表象対象を時間軸に沿ってテクストの意味地平へと総合して行く。このようにテクストと読者とは相互に浸透し合う。読者は異質な現実に対してそれを綜合する役割を担い、その現実の意味をまとめあげるが、それと同時に、自分自身では決して作り出せないような状況に入り込む。(略)読者自身が意味構成を行うにつれて特定の構成をされるのである。
・テクストの意味構成が有意的となるのは、読者がテクストの呼びかけに応じて意味構成をする過程で、読者自身になにかが生じる場合をおいてない。すなわち、「文化的客体」としてのテクストが主体を必要とするということは、意味構成と読者主体自身の構成との両面にかかわっており、双方ともテクストの局面を仲介として展開される行為なのである。
・テクストと読者の結合を調整しうるようなコードは改めて組み立てなければならない。(略)テクストと読者の関係の不均衡は、もともとその関係を規定する要素が欠如しているところから生じているが、まさにこの不確定要素があるからこそ、読者によって異なる多様なコミュニケーションの成立を可能にしているわけである。
・空所はテクストのセグメント相互の結合を保留すると同時に、結合のための前提となっている。ところが、空所そのものはなんら特定の内容をもつことはありえない。空所の機能はセグメント相互の結合が必要であることを合図するのみであって、結合の仕方を指示しているわけではない。従って空所それ自体の記述はできない。空所は〈テクスト内の間(ま)〉としては全くの空白であるが、この〈空白〉から、読者を構成活動に向かわせるに足る原動力が生じる。
・マルクス主義的方法とフォルマリズムの方法(中略)は、読者が本来もつ美的認識にとっても歴史的認識にとっても同じように絶対に必要な役割を見失っている。――すなわち、まず第一に文学作品の受取人に指定されている読者の立場が見落されているのである。というのは、新刊書についての判断を下す批評家、自分の作品をポジティヴであれネガティヴであれ先立つ作品の規範を前にして書く作者、そして、作品を伝統の序列に組み入れ、歴史的に説明する文学史家、彼らもまたまずは読者であって、次いで彼らの文学に対する反省的な関係そのものが再び生産的になりうるのである。作者、作品、公衆という三角形のうち、公衆は受動的な部分であるばかりか、つまり単なる反応の連鎖をなしているのではなくて、逆に歴史形成のエネルギーにもなっている。文学作品の歴史的生命は、その受取人の能動的な参与なしには考えられない。すなわち、読者の仲介があって初めて、作品は、一種の連続を保ち、絶えず変化する経験の地平の中に入っていくのである。連続していることによって、単なる受容は批判的理解へ、受動的受容は能動的受容へ、承認されていた美的規範は新たな、それを凌駕する生産へと、絶えることのない変転が遂行されていく。
・文学と読者の関係は、美的な連繋(内包関係)ばかりか、歴史的連繋ももっている。美的連繋は、まず読者がある作品を取り上げるということが、すでに、これまでに読んだ作品との比較で、美的価値についての一種のふるい分けを含んでいるという点にある。歴史的連繋は次の点に見られる。すなわち、最初の読者たちの理解は、世代から世代へと一つの受容の連鎖をなして生き続け、豊かになりうるし、その間に一つの作品の歴史的意義も決定され、その美的序列が明らかになるからである。
・文学の歴史は美的な受容と生産の過程である。この過程は、文学的テクストが、受けいれる読者、反省する批評家、そして自分で再び生産していく作家の三者によって現代にされることによって遂行されていく。
・文学的生起は、政治的生起とは異なり、それ自体で存立し続ける不可避な継起ではない。次にくる世代がどうしても避けられないものではないのである。作用を及ぼし続けることができるのは、後世のひとびとのもとで、なおも、あるいは再び受容される場合だけである――つまり、読者がいて、過去の作品を新たに自分のものにするか、あるいは作家がそれを模倣するか、凌駕しようとするか、否定しようとするかしている場合である。文学の生起的連関は、第一に、同時代および後代の読者、批評家および作家がもつ文学的経験の期待の地平内で仲介される。
・文学作品は、新刊であっても、情報の真空の中に絶対的に新しいものとして現れるのではなく、あらかじめその公衆を、広告や、公然非公然の信号や、なじみの指標、あるいは暗黙の指示によって、きわめて確定した受容をする用意をさせている。その作品は、すでに読んだものの記憶を呼びさまし、読者に一定の情緒を起こさせ、すでにその始まりから「中間と終わり」への期待を作り出している。その期待は、読み進むうちに、ジャンルあるいはテクストの種類がもつ特定のルールによって保たれるか変化させられる。つまり方向を変えられるか、場合によってはイローニッシュに解消されることがある。
・ある文学作品が、出現した歴史的瞬間に、最初の読者公衆の期待を満たしたり、超えたり、失望させたり、あるいは覆えしたりする流儀様式は、明らかに、その作品の美的価値決定の一つの判断基準となる。期待の地平と作品との隔たり、すなわち在来の美的経験ですでに親しんでいたものと、新しい作品の受容によって要求される「地平の変更」との隔たりが、受容美学的に文学作品の芸術性格を決定するのである。
(轡田収訳『挑発としての文学史』、�機θ�「〈美的隔たり〉が芸術性を生みだす」、二〇〇一年、岩波書店)
・表現されたものがなんであるかを〈認識〉するときにのみ、われわれはそこに示された形を〈読む〉ことができる。否その場合にのみ、およそそれが形となるのである。(略)ある種の判じ絵の場合のように、さまざまな分節の仕方の間を揺れ動いているうちは、われわれはそこにあるものをまだ見てはいない。(略)これと同様なことが、言語芸術作品についても言える。つまり、われわれがテクストを理解するときにのみ―、少なくともそのテクストの言語に精通しているときにのみ―、テクストはわれわれにとって言語芸術たりうるのである。
(轡田収・麻生建・三島憲一・北川東子・我田広之・大石紀一郎共訳『真理と方法�機拌茘犠和茖垣瓠峽歃僂凌人�に対する問いの再獲得」、一九八六年、法政大学出版局)
・文学の概念は、それを受容する者に対する関係を抜きにしては考えられない。文学は、ある疎外された存在が生命を失った形式と化して存続していて、それが後の時代の体験者の現実の中にあたかも同時的な形(Simultaneitat)で与えられるようなものとして存在しているのではない。文学とはむしろ、精神的な維持と伝承の機能であり、それゆえいかなる現在の中にも自らの隠された歴史を持込んでくるのである。(略)したがって、どのように趣味が変化したとしても、われわれが〈古典文学〉と呼ぶものは後代のすべての者に不変の範型として作用するのである。

[ 7] 読者をめぐる言説
[引用サイト]  http://www1.doshisha.ac.jp/~mshindo/dokusya.htm

 

タイトルの、二重山かぎで囲んだ《読者論》はわたしがこれから提案しようとする読者論のことです。一重かぎで囲んだ「読者論」は従来の読者論のことです。《ネーミング術語》を表記するときには二重山かぎで囲むことにしています。《ネーミング術語》を囲む二重山かぎのことを《ネーミング術語かぎ》と呼んだりしています。ここでは、「読者論」を新たな概念規定で提案しますので、新しい「読者論」という意味をこめて、《読者論》というように《ネーミング術語かぎ》で囲ってあらわしました。
現在、多様な「読者論」があり、上谷順三郎氏は「『読者論』について一歩踏み込んで議論しようとすると、まず自分が述べる『読者論』はどういうものかを断る必要が出てくる」(1)(16頁)と述べています。わたしもここで新たな意味での《読者論》を提案します。新しい《読者論》を提案することは「読者論」の世界をますます混乱させることになるかもしれないことは承知のうえですが、あえてそうすることが国語教育における「読み」の学習にとって有用だと考えますので提案することをお許しください。
新しい概念規定を提案するためには先行研究との異同を明らかにする必要があります。そこで、「読者論」に関する先行研究の整理もできる範囲内でおこなっていきます。そうすることによって新しい《読者論》の差異性が明らかになるでしょう。先行研究の整理を通して《読者論》の輪郭をはっきりさせたいと思います。なお、この、「読者論」の整理をするにあたっても、《ネーミング術語》の語法を活用して進めます。概念の核心を焦点化することに長ける《ネーミング術語》は、概念の整理に有効だと考えるからです。従来の「読者論」に、その特徴をあらわす《ネーミング術語》をほどこすかたちで整理を進めます。
観点の1つ1つを分節的にとらえます。この分節的にとらえた観点の多様性を表象することにおいて《ネーミング術語》の手法が有効です。
《ネーミング術語》は、とらえた概念を表象するという点では「記号学」(3)、とらえた概念によりふさわしい術語をほどこすという点では「一般意味論」(4)に通じます。
多様な観点を一緒くたに論じようとすると、混乱におちいりがちです。とらえた観点のすべてを総合することを急ぐことはないと考えます。かならずしも対象となった文章の単位で総合するのではなく、読者の頭脳の回路としての単位に位置づけるのです。それぞれの観点をていねいに1つずつ読者の頭脳の回路に位置づけること(「文章読解体系論」の実行)には認知言語学的な意義があります。この位置づけ活動は認知言語学の基本であるカテゴリー化(5)にあたるものです。わたしは《意味の微分・積分》、《神は細部に宿る読み》などと呼んでいます(「0403文章読解観点論/040308「文章読解観点論」の意義/04030805 意味の微分・積分/04030806神は細部に宿る読み」の項参照)
とらえた観点の集合が、その文章に対するその読者の「読み」のすべてといいますか、表出された「読み」のすべてということになります。
分節的にとらえた観点を複数組み合わせる(統合する)ことによって、また、新しい1つの観点が生じることもあります。
とらえた観点どうしのいくつかが有機的につながる場合もありますし、断章的に独立する場合もあります。断章的でも、同じ文章を媒介とする点ではつながりがあります。どちらも、対象となる作品の「読み」として保障します。
多様な観点を位置づけるために大きな5つの観点の柱を設定しました。5つの柱とは《作品論》、《作者論》、《背景論》、《読者論》、《比較論》のことです。この5つを設定すればたいていの観点はカバーできるだろうという意味での柱です。演繹的に、この5つの観点の中にすべて分類しなさいという意味での柱ではありません。逆に、下からといいますか、文章を媒体としてとらえた1つ1つの観点を帰納的に位置づけするための分類の大枠です。もしこの大枠で都合が悪ければ修正していくという柔軟な考え方で臨みます。
5つの柱間の主従関係はありません。それぞれが同等の力です。《作品論》が主で《読者論》は従でなければならないなどというきまりはありません。ただし、実際のわたしの「読み」の授業において、量的には、《作品論》がほとんどで《読者論》はたまにみられるぐらいです。主従や量の多寡は当該作品、読者、「読み」の目的等によって異なります。
観点の出所は広範です。《作品論》だけの観点で終始する場合もあるでしょうし、《作品論》からは何々の観点、《読者論》からは何々の観点というように、別の柱の観点が混ざる集合の場合もあるでしょうし、《読者論》の観点だけで終始する場合もあるでしょう。
分節的にとらえた観点の大きさ(単位)も自由自在です。既存の単位がなければ、ふさわしいスパンの単位を設定していきます。
とらえた観点の集合がどういうものになるかは、対象となる文章と読者との相関関係によって多様です。わずかの観点しかとらえることができない読者もいるでしょうし、多数の観点をとらえる読者もいるでしょう。浅い観点しかとらえることができない読者もいるでしょうし、深い観点をとらえる読者もいるでしょう。それぞれ、それなりに保障します。
「読み」の内容をはっきりさせたいからです。いったい何を読みとろうとしているのか、わけのわかりにくい「読み」の授業を改革したいのです。実際にとらえた、あるいは、とらえようとしている「読み」の観点の1つ1つについて、「これは《作品論》の何々、これは《読者論》の何々。これは…」と、はっきりと言えるようにしたいのです。「読み」の授業において、すくなくとも指導者としては、はっきりと言えるようになりたいと考えたのです。「読者論」を大きく《態度的読者論》と《内容的読者論》とに分けて考えたとき、《態度的読者論》だと、作品にどう向かうかという、態度・姿勢の問題であり、具体的な「読み」の内容(わたしが「観点」と呼んで1つ1つ明確にとらえようとしているもの)をとらえることには不都合なのです。わたしが提案している《読者論》は《内容的読者論》としての性質をもつものです。観点を分類するための用語といったほうがわかりやすいかもしれません。1つ1つの観点について、「これは《読者論》の観点、これは《作品論》の観点」というようにはっきりと指摘できるようなものです。 生徒がとらえる「読み」の観点をなるべく広く保障したいのです。保障するためにはそれぞれの「読み」の観点を位置づけできることが必要です。《作品論》(《作品寄り添い読み》)のみの観点しか認めない授業だと、作品の文脈から外れているからと捨象されがちな観点も、この《読者論》の観点を設定しておけば保障されることがあります。恣意的な「読み」のようでも、その読者がその作品を媒介として(作品との接点があって)発想した観点であれば「読み」の観点として位置づけたいのです。ただし、全く作品との接点がない観点は「読み」の内容としてはとりあげられません。なにしろ「文章読解観点論」と銘打っていますので、最低限、対象となる文章との接点が必要です。もし、対象となる文章を離れるならば「応用記号学」(6)となるでしょう。逆に言えば、「応用記号学」の、文章への応用が「文章読解観点論」ということです。「文章読解観点論」は《記号学的読み》としての性質をもちます。《記号学的読み》の文章読解への応用が「文章読解観点論」です。
ところで、生徒がとらえた独自な観点(《読者論》)が、道徳的、倫理的な見地から問題含みになる場合もあるでしょう。しかし、それは、《読者論》として位置づけるかどうかの問題とは別問題です。その場合は、文脈に沿っているかどうかの問題ではなく、その観点(内容・考え方)が道徳的、倫理的であるかどうかの問題なのです。《読者論》だから道徳的、倫理的に問題含みになるという公式は成り立ちません。
随筆「字のないはがき」(向田邦子)に、上の妹が、疎開している下の妹に会いに行ったとき、次のような場面があります。
下の妹は、校舎の壁に寄りかかって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣いたそうな。
疎開して、はじめは喜んでいた下の妹ですが、状況がどんどん悪化します。梅干しのたねさえもずっとしゃぶり続けるほど、食べ物もろくにない妹の様子をあらわす《いたいけ描写》とでも呼びたいような場面です。
ところで、ここを読んだ生徒のひとりが、たねをぺっと吐き出して不服そうなのは、母親が迎えに来てくれないからだという「読み」を提示しました(1996年度北谷中学校喜屋武政勝学級)。この「読み」は、《作品論》(純粋に作品内だけの観点による読み=《客観読み》)からすると、はずれということになるでしょう。作品内の他の部分を読んでも、妹が、特別に姉より母親に来てほしいとする理由は見当たりません。しかし、その生徒の過去の体験などにおいて、似たような場面があって、その生徒にとっては、母親が来てくれてうれしかったとか、母親に来てほしかったなどという思い入れがあるとすれば納得がいくでしょう。これは、その生徒独自の体験に基づく「読み」だということです。そして、この観点を「読み」の観点として保障するためには、「わたしは《読者論》として、ここの部分を読んで、こう考えました」というように述べればよいのです。このような観点を、わたしは《読者論》として位置づけたいのです。この観点は《ネーミング術語》の組み合わせで、
この話は、メルヘンチックでいいなあと思いました。それは、ネコが言っていることがわかるからです。私は、メルヘンの話が大好きなので、おもしろいなあと思います。こんな話が、きょうかしょに、たくさんのっていたら、もっとじゅぎょうがたのしいのになあと思いながらよみました。(長勢恵里、1997年度鏡原中学校1年生)
ここで提案している《読者論》は、《読者個人の観点》としての性質をもつものです。その独自の観点が第三者に共通する場合もありますし、共通しない場合もあります。その程度はさまざまでしょう。いずれにしろ、《作品寄り添い読み》としての《作品論》とは内容的に区別されるものとして《読者論》を位置づけたいのです。《作品寄り添い読み》に対するものとしての《読者個人の観点》とでも呼べるようなものです。
《態度的読者論》ですと、《作品寄り添い読み》の性質を備える場合もあります。たとえば、読者は「読み」に参加することによって作者との共同作業によって作品の世界をつくりあげるという考え方です。しかし、《内容的読者論》は、作品内で言い得ることは、しいて《読者論》としてとりたてないような性質のものです。作品内で言い得ることならば《作品論》の観点で済むのです。
わたしは、「読み」の態度としては、もちろん《態度的読者論》をとりますが、さらに、内容的にも、《作品論》と区別される《内容的読者論》の観点も保障したいのです。
わたしが書いた、 映画「ライフ・イズ・ビューティフル」の《ネーミング術語》による感想 、 映画「タイタニック」の《ネーミング術語》による分析 などに《読者論》が部分的にあります。参考に読んでいただけましたらより理解していただけるでしょう。
俳句等の短詩型の文章は字数が少ないので、《作品論》の観点だけでは「読み」がもの足りなくなりがちで、必然的に《読者論》の中の《読者のイメージ》を必要とする比率が高くなる傾向をもちます。たとえば、教科書教材として次の俳句があります。
何のことやらわかりにくい俳句です。そこで、《読者論》>《読者のイメージ》が必要になってきます。次の2つは生徒が書いた鑑賞文です。
この俳句で思ったことは、海岸で昼食を食べようと、缶詰を缶切りで、きこきこきことあけようとしている一人の人が、わたり鳥たちの羽音がきこえふと見ている時で、海には魚がとても気持ちよく泳いでいて、近くの森林では鳥の囀が聞こえ、さわやかな光景である。(上江洲彰彦、1993年度琉球大学教育学部附属中学校3年生)
この句は、つかれた女の人が、生活をたてるために、ほっそりと仕事をしている。それは、もし男の人が缶を切っているのなら、「ばきばきばき」とか「ごきばきごき」などとなると思うからだ。なのにどうして「こきこきこき」というかというと、初めの秋を表す「鳥わたる」では、何年か前この鳥がわたってきたときに、夫を戦争か何かでなくしたことを思いだしながら、つかれた身体にむちうち、悲しい思い出を思い出しながら缶を切っている。
だから、この「こきこきこき」というのには、妻のつかれている身体と、悲しい心を表していると思う。(桃原務、1993年度琉球大学教育学部附属中学校3年生)
これらは、《読者のイメージ》をふくらませた「読み」です。それぞれの想像力や感性が生かされていて尊いものだと思います。これらの観点は次のように位置づけられます。
「040403 《読者論》の具体例」では、《読者論》を具体的に知っていただくために、いきなり例を提示しました。ここでは、わたしが提案する《読者論》をどのようなものと考えているか、その性格と内容について述べます。《ネーミング術語》の手法を活用して説明していきます。
ここでいう《読者論》は、読者の態度にかかわる用語ではなく、読者の「読み」の内容にかかわる用語です。すなわち、《内容的読者論》と呼べるようなものです。これと対置するものは、作品を主体的な態度で読もうという《態度的読者論》です。《態度的読者論》も、もちろん大事です。《内容的読者論》の観点をとりたてるにしてもとりたてないにしても、「読み」の態度としてはわたしも《態度的読者論》をとるべきだと考えます。では、あえて《内容的読者論》を提案するのはどうしてかといいますと、「読み」の内容を静的(スタティック)に把握(位置づけ)するには、《態度的読者論》よりも《内容的読者論》としての概念のほうが明確にできるからです。
わたしが「文章読解観点論」という「読み」の理論をうち立てるようになったのは、わたし自身の「読み」の授業のまずさをなんとか克服したかったからです。なにがまずかったのかといいますと、まず教師であるわたし自身が「読み」の内容をつかむことができなかったということです。「読み」の世界は混沌としてよくわからないというのが実感でした。いったい何をとらえれば読みとったといえるのか? という切実な課題からスタートしました。
そして、「読み」とはなんらかの観点をとらえることであること。観点をなるべく分節的にとらえ、それぞれの観点を明確に位置づけることが「読み」の本質だという結論に達したのです。その結果、読者の個人的な観点(《読者論》)もひとつの観点、すなわち「読み」の中身として位置づけられるものだと考えるようになったのです。
《読者論》の観点は、みんなが同じようにそう読むという客観的な観点ではなく、読者独自の観点です。《個別観点》とでも呼びましょうか。また、この観点による「読み」は《主観読み》とでも呼べるようなものです。これに対して、同じく「文章読解観点論」の観点の柱のひとつである《作品論》はまた、徹底して《客観読み》と呼べるようなものです。ここでいう《作品論》とは本文の叙述のみから読みとれる観点のことです。いわば《ニュークリティシズム読み》です。読者の主観を入れないで、誰が読んでも客観的にそう読めるというような観点です。
したがって、《読者論》は客観テストに出題するにはふさわしくない性質のものです。ただし、読者の個性や創造的思考をみる意味で《読者論》を出題するのならば有効でしょう。その場合の正解は「答えは1つ」ではなく、《多様答》の性格をもつものになります。
《読者論》は「文章読解体系論」の《5つの観点の柱のひとつとしての読者論》です。「文章読解観点論」は文章を媒体として多様な観点をとらえる「読み」です。この「読み」でとらえられる観点を「文章読解体系論」によって大きく柱立てすると、《作品論》、《作者論》、《背景論》、《読者論》、《比較論》の5つが考えられます。ひとつの作品からとらえられるいろいろな観点は、これらの柱のうちのひとつだけに終始することもありますし、複数に位置する場合もあるでしょう。作品と読者との相関によって多様です。
ここで留意してほしいことは、「文章読解観点論」においては、作品に対する態度に関わることで、《態度的読者論》で読むか、それとも古典的な〈解釈学理論〉の態度で読むか、のどちらをとるかという意味での「読者論」ではないということです。態度としては、《態度的読者論》をとります。しかし、ここでいう《読者論》は態度に関わることではなく、観点の内容の分類に関わることです。ですから、「文章読解観点論」においては、態度に関係なく、とらえた観点の内容によって、従来の〈解釈学理論〉的な観点であればそれは《作品論》の観点であり、その読者しか考えないような観点であれば、それは《読者論》の観点であるわけです。多様な観点を広範に認める「読み」の中の、読者独自の観点だということです。
「文章読解観点論」に基づく「読み」は作品を享受するだけではなく(ただし、その中の《作品論》は享受する性格のものです)、作品を読者の思考・認識の媒体物とする「読み」も認めます。とくに《読者論》に関してはその性質が強くなります。いわば《作品媒体読者論》とでも呼べるような「読み」です。
夏目漱石は、書物を読むことによって暗示を得ることを「人工的インスピレーション」と呼びました((7)、93頁〜95頁)。他の書物を読んで書き込んだ書き込みだけで1冊の本になるという伝説もあります。夏目漱石にならって、作品を媒体としてなんらかの発想を得るような「読み」を《人工的インスピレーション読者論》と呼びたいと思います。
感想文によくみられる、読者の体験等を通しての言述はほとんど《読者論》の観点だといえます。たとえば、「私にも似たようなことがあった」とか「私ならばどうする」などの観点です。
読者があることについて論述する際などに、他の作品から引用する読み方のことです。引用する部分は断片でもよく、また、その作品の文脈には反するような論述に用いてもよい「読み」です。《引用読者論》とか《断片的読者論》、《独我的読者論》とでも呼べるようなものです。作品の文脈からすると枝葉末節なことでも読者の論にとっては重要な材料になることもあるでしょう。
従来の「読者論」を《ネーミング術語》の手法で整理していきます。そうすることによってここで提案する《読者論》の輪郭がより明確になるでしょう。
作者と作品を中心とする「作者のコンテクスト」において、修辞学をはじめ、文体論、意味論、さらには、批評史、文学史などが成立しているが、その一つ一つに対応するものを、読者の立場においても考えることができるはずである。((8)、263頁)
《作者作品論鏡対応読者論》と《ネーミング術語》をほどこしたい読者論です。関口安義氏は外山氏の考え方を「二元論的発想」であり、限界があると批判的にとらえていますが、わたしは、「読み」の内容を静的〈スタティック〉にとらえるためにはむしろ明確で有効なとらえ方だと考えます。わたしのいう《読者独自の内容的読者論》に近い考え方だと思います。
読者を読者たらしめている諸条件の総和がいまのべたように「読者のコンテクスト」であるが、それはさらに、普遍性、共通性の高い部分と、逆に個人差の大きい部分とに区別されなければならない。((8)、265頁)
《普遍性・個別性区別読者論》とでも呼びましょうか、外山氏は「読者のコンテクスト」を、「共通性の高い部分」と「個人差の大きい部分」とに分けることまで考えています。わたしがいう《読者論》は、いわば《読者独自の読者論》ですから、この中の「個人差の大きい部分」(《個別性読者論》)により近いと思います。
わたしがいう《読者論》の概念は、この外山氏の考え方に最も近いような気がします。早い時点で「読者論」について述べた論述ですが、わたしが提案する《内容的読者論》の観点からすると、外山氏のものが最も明快な「読者論」のように思えます。わたしの提案との相違点をいいますと、「読者論」の具体例(用例)があげられていないことと、《断片的読者論》のレベルまでは考えてないのではないかということです。「作者のコンテクスト」と「読者のコンテクスト」の両方を組み合わせて一つの作品世界を作り上げていくというニュアンスがまだ感じられます。
国語教育の世界を長らく支配してきた、いわゆる〈国語教育解釈学理論〉では、教材としての作品は客観的対象として、あらかじめ学習者の外側にそんざいするものとされる。((9)、347頁)
読解の答えは1つというそれまでの〈国語教育解釈学理論〉に異を唱えた論です。《対〈国語教育解釈学理論〉読者論》と呼びたいような「読者論」です。
読者論に立つ指導は、テクストの構造にそくした読みの徹底を図ることにあり、その中核は文学言語の教育にある。単なる語句の分析に終わらず、前後のコンテクストを押さえ多義的な読みをしていくのである。((10)、633頁)
「前後のコンテクストを押さえ」とことわっているところから、作品世界を切り刻むことまではいかない、いわば《作品有機読み》としての読者論です。これに対してわたしが提案する《読者論》だと、作品は読者の思考の媒体と考えたり、引用の対象と考えたりもします。そういう意味では《作品断片読み》も認めるような読者論です。
「表現構造の読み」は純粋に「構造主義」的立場に立つものである。これは純粋に文学作品の表現構造を問題にしようとするものである。(中略)「表現構造の読み」は、作品によって規制されるものを明らかにしようとする理論である。文学作品を読むという現象は、作品と読者の双方にそれぞれ規制される。一方「異型読み」は、読者が作品によって規制されるものを受けとめながら、さらに、自分の読みをつくっていこうとする理論である。/このように見てくると、私の理論的立場は「表現構造的読者論」とでも名づけられるべきものである。((11)、22頁)
竹長氏は「異型読み」のことを「表現構造的読者論」とも呼んでいます。すなわち、「表現構造読み」と「読者論」が合わさったものという意味です。読者独自の観点をとり入れることでは《読者論》と共通します。相違点は「表現構造読み」という、「文章読解観点論」でいえば《作品論》に近い読みと「読者論」を統合していることです。「文章読解観点論」はその両方を含み込んでいますが、含み込んではいても分節的に区別します。たとえていえば、《るつぼ状態》ではなく《サラダボウル状態》です。「文章読解観点論」においてはこの区別が大事なのです。
また、細かく違いを述べますと、「表現構造読み」と、わたしのいう《作品論》とは次の点で異なります。わたしのいう「文章読解体系論」の分類でいいますと、竹長氏は《作品論》の中の《内容》より《形式》を重視しています。わたしは《内容》も《形式》も同等の比重であつかいます。その比重は作品や読者の相関によって異なるものと考えます。
そして、「異型読み」は、わたしの分類でいいますと《作品有機読み》(対《作品断片読み》)に位置するものです。わたしのいう《読者論》は《作品断片読み》も保障します。
イーザーの読者論の特徴は、読書を一つの過程として全体的にとらえるところにある。読書過程の間に、読者はテクストとコミュニケーションをしながら一つの作品を作り上げていくと考えられているのである。作品の意味というのは前もって決まっているのではなく、読者がテクストとコミュニケーションすることによって作り上げていく。したがって、そこでは読書を一つの現象として――行為として――とらえることが基本となる。行為であるから、読書は読者にとって一つの出来事として体験されることになる。また読者は、テクストと対話したり、読んでいる自分と対話したり、他の読者とも――作者とも――対話することができる。このように想定される読書では、読者が中心となって、自由な遊びの雰囲気が醸し出されることも期待できるのである。((1)、16頁)
上谷氏は「読者論」の具体的な読みの実践例として宮沢賢治「注文の多い料理店」読書行為ノートを紹介しています(1)。この「読み」を「文章読解体系論」の観点で分類しますと、《作品論》と《読者論》と《作者論》の観点が混在したものとなっています。《テクスト論一緒くた読者論》とでも呼びましょうか。作品を追いながら読者の頭に浮かんだことを次々に書き出すかたちになっています。読者の頭に浮かんだことを逐次とりたてるという点では「文章読解観点論」の「読み」にも共通するところがあります。しかし、それぞれの「読み」の観点を一緒くたにしたのでは、《作品論》と《読者論》との区別がはっきりしません。それぞれの観点を位置づけすることには、認知言語学のカテゴリー化としての学習の意義があります。わたしはこのような「読み」のことを《神は細部に宿る読み》、《意味の微分・積分》などと呼んでいます。「文章読解観点論」による「読み」はなるべく観点を截然と分節的にとらえようとします。そのことに習熟することによって、その観点の周辺との関係や全体への位置づけもみえてくるものと考えます。
わたしは、この揺り返しである〈転回2〉に竿をさして、解釈学的な読みの指導の下で抑圧されてきた学習者の読みを意味づける研究・実践の方途をさらに探りたいと考えている。文学批評理論の世界で生じた「テクスト独我論」の発想を、実質的なかたちで、教育の世界で意義づけることが急務であると考えている。いわば、テクスト独我論的な転回を「学習者論的転回」として形あるものにするということである。これまで読書教育論の展開のなかに度々浮上しては消えていった読者論的発想は、まだ「学習者論的転回」を実現してはいないと考えているからである。(12)
短い論考ですが、「読者論」の流れ(転回)の肝要をラディカルなところまで図式的に明確にとらえた論考だと思います。ここでいう「テクスト独我論」が《個別観点》(《読者独自観点》)としての《読者論》の考え方に近いと考えます。ただ、塚田氏のいう「テクスト独我論」の性格が、わたしのいう《態度的読者論》の性格をもつものなのか、それとも《多様な観点のひとつとしての読者論》(《内容的読者論》)の性格をもつものなのかは、これだけからは知ることができません。「文章読解体系論」の《読者論》は、「テクスト独我論」の性格をもつものですが、それは、観点の柱のひとつであり、「文章読解体系論」の中には、それこそ〈解釈学理論〉的「読み」(すなわち《作品論》)も位置づけられているのです。
日本の風土に適っていて、しかも一見新しく見えるものに、意外に手強い和風てくすと論がある。既存の読みに対し、別のコードを導入、あるいは既存の物語に対して、さらに別の物語を対置し、読みの多様性を言い、ああも読めるが、こうも読める、そのなかで私の読みはこうだと主張する。果ては〈作家〉まで無媒介に並べ、しかもそれを〈テクスト論〉と標榜する。この自称〈テクスト論〉=和風てくすと論は三好行雄や越智治雄が追い求めた、幻の唯一の読み、〈本文〉に内在する一義に向かっての厳しい追求を失ったばかりではない、他方で「構造分析」や「テクスト分析」が持っていた批評の攻撃性も持っていなかった。読みの多様性を許容することは戦後民主主義の立場に見え、共感を得たのかもしれない。だが、ここでは読みの多様性が恣意性の自己主張であることさえ理解されていない。民主主義とは互いに否定し合う相手と共生し合うことを目指しており、ああも読めるが、こうも読めるという〈他者〉のいない世界ではなかったはずである。このナンデモアリは、人によって読みは違っているから、それぞれの読みが許されているという、〈エセ読みのアナーキー〉を野放しにしたのであり、読みの相対主義にはなっていないのである。
《理想的作品論》とでもいいますか《究極作品論》とでもいいますか、また、作品によって読者が変容するという点では、《作品媒体読者変容論》とでも呼びましょうか。そして、《〈エセ読みのアナーキー〉批判》ともいうべき、作品から逸脱する「読み」を痛烈に批判しています。
たぶん、「文章読解観点論」の中の《読者論》(《独我的読者論》)も、田中氏によれば典型的な〈エセ読みのアナーキー〉ということになるでしょう。わたしはウチアタイ(沖縄方言で「心当たり」に近い意。名訳は「内心打撲症」。)しました。しかし、わたしは「ナンデモアリ」の姿勢は大事だと思っています。「読み」のあり方にとどまらず、世界平和のためにも「なんでもあり」の姿勢は大事なことだと考えます。
「一義に向かっての厳しい追求」をするにしても「批評の攻撃性」においても、論じるための材料としての「読み」の観点は必要です。より止揚された論を展開するためには相手の観点も自分の論に含み込むほうがよいでしょう。田中氏の真摯でレベルの高い「作品論」にもわたしは敬服します。あのような「読み」もできたらという願望もあります。そして、決してそのような読み方を否定はしません。しかし、もし、田中氏が「読み」というものはすべてこのようでなければならないと主張するのならばわたしはそういう姿勢には反対します。
田中氏の「読み」はレベルが高いものです。しかし、「読み」の現実というものは、かならずしも田中氏が望むようなレベルの高いものだけではありません。いわゆる浅い「読み」もありますし、断片的な「読み」もあります。もちろん、田中氏のような深い、有機的な「読み」ができるにこしたことはないでしょうが、現実には、浅くて断片的な「読み」もあるのです。わたしは、そういう「読み」も、それなりに「読み」として表出できるようにしたいのです。浅いならば浅いなりに、断片的ならば断片的なりに、まがりなりにも読みとった分は読みとった分としてはっきりしたかたちで表せるようにしたいのです。それを実現したのが《分節観点読み》としての「文章読解観点論」です。
読者によって《作品論》のレベルもいろいろです。中学生には中学生のレベルがあるでしょう。かならずしも、田中氏のように構造的に立派なレベルだけが「読み」のすべてではありません。稚拙な観点や断片的な観点も、その中で破綻がなければ、つまり、それなりに言い得ているのならば保障したいのです。
田中氏は文学の深遠さとでもいうようなことにこだわっているように思えます。たしかに文学には簡単には手の届かない深遠さがあるでしょうが、「読み」(読解)というものは、その深遠さを畏れおおく混沌としたままおしいただく方向性ではなく、なんとか明確にわかりたいという方向性をもつものではないでしょうか。「文章読解観点論」は文学に固執しません。非文学の文章も同じようにあつかいます。とにかく文章を読んで発見したこと、わかったこと、あるいは、文章を媒介として思い浮かんだこと、関連することなどの、多用な観点を「読み」の内容として表出させることが「読み」だと考えます。文学を対象とする場合には文学的な観点の比率が多くなる傾向はあります。
「文章読解観点論」は文学にこだわるよりは、読者(学習者)の思考をシャープにすることに力点を置く「読み」です。いわば、《記号学的読み》、《認知言語学的読み》とでも呼びたいような「読み」です。田中氏のいう〈ことばの仕組み〉(276頁)などの観点は「文章読解観点論」の中の《作品論》でとらえたり味わったりします。この《作品論》はまた、すこぶる《作品寄り添い読み》なのです。「文章読解観点論」は、アナーキーな《読者論》も含み込みながら、また、対照的な《作品寄り添い読み》も含み込むような、ふところの深い「読み」です。
「文章読解観点論」は、国語教育の分野として研究していますので、対象を文章に限定してはいますが、できることなら敷衍して世界の見方にまで応用できるものにしたいと考えています。その根本原理は「なんでもあり」です。「なんでもある」ことの1つ1つをふさわしい単位でとりたて、焦点化し、ふさわしいことばで表象することの積み重ねで世界観を構築していけないかと考えています。
いくつかの読者論(田中実氏の場合は対照的な「作品論」の重要性を強調しておられます。対照させる意味であえてとりあげました)の性格をマトリクス表にしてみました。的確に把握できていなかったり分類が強引であるとかのご批判がありましたら、考え直したいと思いますのでご指摘をいただけましたら幸いです。○印がついてない欄はわたしが得た叙述の範囲内では、あるいは、わたしの理解力では判断できない属性です。
(1) 上谷順三郎、『読者論で国語の授業を見直す』、明治図書、1997年3月初版 (本文に戻る) (04050504の本文に戻る) (アンダーライン部分をクリックすれば本文に戻ります。《注・本文往復リンク》と呼ばせてください。1999年11月13日)
(2) 拙著、『《ネーミング術語》による読みの授業』、東京法令出版、1996年4月25日第2版 (本文に戻る)
(3) G・ムーナン著、福井芳男・伊藤晃・丸山圭三郎訳、『ソシュール 構造主義の原点』、大修館書店、1970年11月5日初版、1984年11月10日12版 (本文に戻る)
(4) 井上尚美、福沢周亮、平栗隆之、『一般意味論──言語と適応の理論──』、河野心理教育研究所出版部、1974年9月20日第1版 (本文に戻る)
(6) 古田隆彦、『定本ヒットネーミング作法◎応用記号学のすすめ』、にっかん書房、1992年3月6日初版 (本文に戻る)
(9) 関口安義、「読者論導入による授業の改革」、『教育科学国語教育352号』、明治図書、1985年9月、『国語教育基本論文集成第12巻国語科理解教育論?物語・小説教材指導論�供挂声�図書、1994年 (本文に戻る)(10) 関口安義、「読者論の読み」、『国語教育研究大辞典』、明治図書、1991年7月 (本文に戻る)
(11) 竹長吉正、『読者論による国語教材研究 中学校編』、明治図書、1995年10月初版 (本文に戻る)
(12) 「読書教育論の転回」、筑波大学教育学第1回研究会講演要旨、1995年6月21日、於教育学系大会議室 (本文に戻る)
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[ 8] 「読者論」と《読者論》
[引用サイト]  http://namingt.sucre.ne.jp/reader.htm

 

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